物を拾う衝動

郷津晴彦 


 流木である。流れてきた木。これが石だと流石である。さすが。さすが石、立派ですね、となるわけだが、これは木である。ただの流木である。いや、かつてはただの流木であった。それが今では、拾われたことによって、ほかの幾千万の流木とは違う、特別な存在になったのだ。
 たとえば拾ったきれいな貝殻を掌にのせる。ティッシュに包んで大切に持って帰る。と、それは少なくともその人にとっては特別な物となるだろう。
 人が物を拾うって、何だろう。
 お金を拾うとか、モク拾いとか、そういうことを言っているのではない。そういう経済的価値を拾うことではない。
 粗大ゴミの中から、まだまだ使えそうな椅子を拾ってくるのとも違う。
 もしもし落としましたよ、と言ってハンカチを拾うような、親切の行いでもない。
 トクにも、タメにもならないけど、「思わず」拾ってしまう……。そうやって拾われた物。そうして特別な存在となった物。これはひょっとしたら「オブジェ」の原点なのではないかと思う。
 渚。波打ち際。さーっと一つ波が引いた後、ふと足もとに見つけた、透明に濡れて輝く、グリーンの小石。思わず拾わないだろうか。
 拾いませんか? 
 でもそれは宝石ではない。ガラスなのだ。ビンか何かの破片が潮にもまれ、砂に磨かれて丸くなったものなのだった。
 なんだガラスかと、がっかりしてポイと捨てる。そんな人もいると思う。経済的な頭がパチパチとソロバンをはじいて、ガラスの破片=経済的価値なし、と瞬時の判定を下したわけで、そのジャッジメントが、ガラス片を「つまらない物」に見せたわけだ。
 漂着物を拾うのが趣味の人たちの間では「ビーチグラス」といわれ、ひとつのジャンルを成していると言ってもいい。この場合「ビーチグラス」と名付けられたことがポイントで、経済的価値に代わる、ある価値を付与されたとも言える。もちろんそんなお墨付きなどなくても、謂わば裸の目で自分だけの価値を見いだすことができる人もいるだろう。子どもがそうかな。大人はどうだろう。そういう人は案外少数なのかもしれない。
「つまらないもの」として捨てようが、「ビーチグラス」として持ち帰ろうが、とりあえずポケットに入れて後でどうしようが、ここでは問題ではない。問題にしたいのは、最初に「思わず拾ってしまう」ということだ。
 透明に輝くガラス片を思わず拾ってしまう衝動には、人間を、ひたすら「人工」へと向かわせることとなる、何やら妖しい光が宿っているのではないか。もっと透明なもの、もっと光るもの、もっと鮮やかなもの、もっとシャープなもの……。
 しかしである、とまた思うのである。流木を拾わせる衝動には、それとは違う何か、むしろ逆のベクトル 遠い過去へ、なつかしい場所へと、人を引き戻す何かが、ひそんでいるような気がする。
(「ビーチグラス」はまた、割れたての鋭利なものではだめで、砂に磨かれ丸くなった、謂わば人工の力が自然の力に少し負けたくらいのがいいのであって、そのへん複雑である。なかなか一筋縄ではいかない。)


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