流木と私。自然と人。

郷津晴彦 

 私の作品は海岸で流木と出会うところから始まります。作品になるようなきれいな流木はなかなか見つかりませんが、良いものは、ふと、そこに、あるものです。たまたま出くわした時のための心の準備をして、自然体で歩いているといいようです。
 拾った流木はよく観察されなければなりません。命ある植物のかたちだから、そこには流れがある。それを読み取るのです。そしてかたちには、ツボというか経絡というか、そんなようなものがある。それを見きわめるわけです。ここが勘所です。
 太陽光をレンズで集め、流木に焦点を合わせます。そこには、ほんの1ミリぐらいのちっぽけな太陽が写っています。かつてその木を育てたのと同じ太陽です。流木が焦げ始めたら、かたちに添って、流れに沿って、かたちに秘められたちからに導かれるようにして、じりじりと焦げ目をのばしていきます。かたちとは目に見えないちからが目に見えるものに姿をかえたものなのでしょう。かたちの中には時間が込められています。
 制作は流木を拾った現場の海岸でやらなければなりません。海からの風、匂い、潮騒の響き……そういった海辺の気分に浸っていると、自分のこころと海のこころがひとつになるような時があります。母なる海、父なる太陽。その間に自分がいる感じ……。そんな中から私の作品が生まれます。
 私の拾う流木は人の手が加わった形跡のないものに限ります。自分で切ったり削ったり磨いたりといった加工もしません。全くの天然のかたちです。それに焦げ目を付けるのですから、考えてみれば恐ろしい行ないです。流木を焦がす時、この自然の造化を生かすも殺すも自分しだいという、厳しい状況に立たされているのを感じます。本当にきれいな流木を目の前にすると、焦がすのがためらわれることもあります。これに手を加えるとは、いったいどういうことなのか……。
 「流木」と「自分」との関係は、そのまま「自然」と「人間」との関係でもあります。「人間」をもっと詳しくいうと、人間のあたまの中にある意志です。人間の中にも自然はあります。こころやからだがそうです。こころは海のこころとひとつになっている。でもあたまは違う。はっきり目覚めていなくてはいけません。問題は意志(言葉の本当の意味での精神)の働かせどころです。作品は、人間の精神が自然に対してどう振舞うかという、のっぴきならぬ問題に通じています。人間精神はなによりもまず観察者であります。出過ぎたまねは禁物です。人為は必要最小限かつ的確でなければなりません。
 海は生命の故郷です。その海から上がってくる流木には、我々の生命記憶を揺さぶる何かがあるようです。我々はどこから来たのか? 民族のルーツの問題から、古生代終盤の一億年を費やした脊椎動物の上陸劇に至るまで、波打ち際の記憶は、私たちのからだの奥底に眠っています。ふとした拍子に、たとえば流木を握りしめたときに、それは蘇ってくるような気がします。

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